香りの、はじまり。
前回は、光がつくりだす影と、その陰影の魅力について考えました。目に入るものだけでなく、目立たない方へ意識をずらすと、景色の別の側面が見えてくる―― 。
香りもまた、そのひとつです。
形がなく、それでも確かに空間を満たすもの。いつから人は、それを身近に感じてきたのだろう。そう思って、手元にある『日本の香』(誠文堂新光社)を開いてみました。
香りは、いつから

手に取った本は、日本香堂監修のもと、2025年に刊行された日本の香りの歴史や文化を一冊にまとめたものです。
線香、お香、アロマオイル、香水。さらに化粧品や洗剤などの日用品まで、私たちの暮らしは香りを伴うもので満ちています。
それに気づいたとき、ふと、人はいつから香りを楽しむようになったのだろうと思ったのです。
竈から立ちのぼったもの

『日本の香』の冒頭に、
「木にして木にあらず、水に沈み、天与の芳香漂わせ『沈水香』と名づく。」
とあります。これは沈香の性格を端的に示す言葉で、その背景には日本最古の正史とされる『日本書紀』の記述があります。
「推古天皇3年(595年)の夏4月、ひと囲いほどの香木(沈香)が淡路島に漂着した。島民は沈香を知らず、薪と共に竈(かまど)で焼いた。すると、その煙は遠くまで類いまれなる良い薫りを漂わせた。これは不思議だと思い朝廷に献上した」
同書は、そこに小さな問いを置きます。
なぜ、島民はそれを献上したのか。
知らない木を、ただの流木として扱った人々が、香りを前にして「ただの木ではない」と感じ取った。その瞬間から、日本の香りの物語が動き出します。
香を知る人々

その答えには、仏教の伝来が深く関わっています。
仏教はインドに起こり、中国・朝鮮半島を経て日本へ。公的な伝来は538年、または552年。いずれも欽明天皇の時代とされ、このとき仏像や経典とともに、香を供える習わしも仏教儀礼の一部として伝わっていったようです。
淡路島に香木が漂着した595年は、その数十年後。
時の朝廷の人々には、香を特別なものとして受け止める素地があったのかもしれません。
献上を受けた朝廷には推古天皇がおり、政治の中枢には、仏教を重んじた聖徳太子がいました。のちに遣隋使を送るなど、大陸の文物に目を向けた時代です。異国から流れ着いた芳しい木の価値を、彼らは正しく受け取ったことでしょう。
では、その香は、この後どのように根づいていったのか。
言葉の前に、香り

それを物語る人物が、奈良時代にいます。高僧、鑑真です。
戒律を伝えるため幾度も渡海を試み、失明を経てなお来日を果たした鑑真は、海を越えて香を携えてきた、と薬師寺長臈(ちょうろう)・松久保秀胤さんは語ります。
「仏と人をつなぐもの、人と人をつなぐもの。それは、お香なの」
国が違い、言葉がすぐには通じなくても、人と人をつなぐものは香りである。だから鑑真は、香木だけでなく塗香(ずこう)を持ってきた。手にすればすぐに香り、何かを感じ、仏に親しんでもらえるから―― 。
言葉がすべて通じなくても、香りは感じられる。教義を理解するより前に、身体が先に受け取る。香りとの出会いは、そんなふうにとても感覚的で、神秘的なものだったのではないでしょうか。
海を越えて持ち込まれた香は、楽しむためのものではなく、人と仏、人と人をつなぐ祈りのかたちだった。そのはじまり方は、今の私たちにも静かに息づいているのかもしれません。
煙の向こうに

私たちは、仏壇やお墓で手を合わせるときに線香を供します。お寺に赴けば、独特の香りに気づきます。考えてみると、仏教の空間は、今も香りと深く結びついています。
ふたたび、『日本の香』を開いてみます。
「飛鳥~奈良時代、香は仏に祈るために供える『供香(くこう)』として用いられた。香木や生薬を刻み合わせて焚く『焼香』、香を粉末にした『抹香(まっこう)』、それを手や首筋に塗る『塗香』があり、それは1400年たった現在も続いている用法である。」
伽藍に漂う幾重もの白い煙、線香から立ち昇る一筋の煙。
それを目にするとどこか厳かに感じるのは、そこに空間や心身の穢れを浄める意図が、今も息づいているからかもしれません。いま見るような棒状の線香が広まるのは江戸時代以降のようですが、香を供える心のありようは古くから続いています。
香りのはじまりをたどることで、その歴史の長さや、古代の人々が触れた香りの意味の深さを知ることができました。
線香の煙の前で、ふと背筋が伸びる。
その感覚の奥には、飛鳥の人々が香木の煙に感じた驚きや、海を渡ってきた祈りの気配が、今もかすかに続いているのかもしれません。

文:清水洋平(清水屋商店)
株式会社良品計画にて「MUJIBOOKS」プロジェクトを立ち上げ、本を介した売場づくりや出版レーベル「MUJIBOOKS」による『人と物』シリーズの刊行、「つながる絵本」「本の回収」などの仕組みづくりに携わる。現在は『無印良品 くらしのラジオ』のプロデュースおよびパーソナリティを務めるほか、書籍、音声、展示、イベントなどを通して、ものごとの背景や価値を伝える企画・プロデュースを行っている。2025年には日本香堂監修の書籍『日本の香』(誠文堂新光社)の企画・進行・PRを担当。
