火と、余白
お香に火をつける。
先端に小さな炎が立つ。
それを、そっと消す。
すると、細い煙がゆっくりとのぼり、香りが部屋にひろがっていく。
そのほんの数秒の行為を見ていると、お香のそばには、いつも火があるのだと気づきます。
前回、日本に香りが伝わった歴史をたどったときにも、そこには火がありました。 香木は炷(た)かれ、寺院では香の煙が立ちのぼっていた。香りは、火を介して人のもとへ届いていたのです。
人と火

人の文明を支えてきたものの一つに、火があります。
火はもともと、雷や山火事のような自然現象でした。
それを人は、いつしか自ら起こし、保ち、必要な場所へ移すようになりました。
その火がもたらしたのは、熱と明かりです。寒さをやわらげ、闇を遠ざけ、食べものを変える。
火を操ることは、人が世界との関わり方を変えることでもあったのでしょう。
火を使って行うことといえば、焼く、熱する、燃やす、温める、灯す。なかでも日常に深く結びついているのが、料理です。
料理の火

英語の cook には、「火や熱で食べものに手を加える」という意味合いがあるようです。 日本語の「料理」は必ずしも火だけを指すわけではありませんが、料理という行為の中心に火があったことは確かでしょう。
人は、他の多くの動物とは違って、食べものに火を通してきました。
食べものを加熱すると、一部の栄養素が失われることがあります。一方、火を通すことで、食べものはやわらかくなり、目に見えない危険も、熱が抑えてくれます。
人を含む多くの動物にとって、食べることは時間とエネルギーを使う行為です。噛み砕き、飲み込み、消化し、吸収する。その過程には、思った以上の負荷がかかっています。けれど、火を通した食べものはやわらかくなり、消化や吸収の負担も軽くなります。
つまり、火を使った食事によって、人はより少ない時間と力で、栄養やエネルギーを取り込めるようになったのかもしれません。
これによってもたらされたもの、それは食事のために費やしていた時間とエネルギーを他のことに使えるようになったというもの。言い換えるならば、生き延びるためだけに費やさなくてよい時間を手に入れたということでしょう。
それが文明の発展に大きく寄与したという考え方があるようです。
また、火は人を集めるものでもありました。火を囲み、料理したものを分け合って食べる。 その時間もまた、人間の社会性と深く結びついていたのでしょう。
火を消して

料理の火は、食べものを変える火です。
かたいものをやわらかくし、生のものを食べやすくし、食べるために必要だった時間や力の負担を軽くしてくれます。この火は、私たちに新しい時間をもたらしたのかもしれません。
けれど、お香の火は少し違います。
お香に火をつけるとき、私たちは先端に炎が立つのを見届けてから、すぐにその炎を消します。
火をつけるのに、火を消す。
香りがはじまるのは、炎が燃えている最中ではなく、炎が消えたあとです。
そこに残った小さな熱が、細い煙を立ちのぼらせ、香りがゆっくりとあたりへのびていく。
料理の火が、燃やし続けて何かを変える火だとすれば、お香の火は、消したあとに何かを待つ火なのかもしれません。
消えて始まる

ここで飛鳥時代の祈りの香りを思い出してみます。
僧侶たちは伽藍の中で香を炷き、そこから上がる一筋の煙が香りをはこび、その香りが空間全体を満たしていく。
そんな空間にいることを想像してみます。
ひんやりとした床。
その上にまっすぐに伸びるいくつかの柱。
入り込むかすかな光。
その光に照らされ、ゆらめく白い煙。
その幾重にもただよう煙が、荘厳と幻想を生み出しながら、私を包む。
このとき、私は時間が止まっているように感じる。
お香を炷くという、ささやかな行為。
火をつけ、炎を消し、煙が立つのを待つ。
ふと漂ってきた香りに気づき、呼吸する。
すると、その香りから、忘れていたなにかを思い出す。
それはほんの数秒なのに、その数秒が妙に長く感じられることがある。
料理の火と、お香を炷く火。
一方は、燃やし続けて、ものを変える。もう一方は、消したあとで、香りが立つのを待つ。
香りは一日を二十五時間にしてくれるわけではない。
余った時間をつくってくれるわけでもない。
それでも、香りを感じるその数秒の中に、余白を灯してくれる。
火と、余白。
つける火と、消したあとの火。
同じ火でも、時間を生む火と、その時間に余白を灯す火があるのかもしれません。

文:清水洋平(清水屋商店)
株式会社良品計画にて「MUJIBOOKS」プロジェクトを立ち上げ、本を介した売場づくりや出版レーベル「MUJIBOOKS」による『人と物』シリーズの刊行、「つながる絵本」「本の回収」などの仕組みづくりに携わる。現在は『無印良品 くらしのラジオ』のプロデュースおよびパーソナリティを務めるほか、書籍、音声、展示、イベントなどを通して、ものごとの背景や価値を伝える企画・プロデュースを行っている。2025年には日本香堂監修の書籍『日本の香』(誠文堂新光社)の企画・進行・PRを担当。
